ワリカンするあほ男にはこのぐらい言ってやりませんか? - デートは... - Yahoo!知恵袋
芥川龍之介はこう言った。「恋愛は、ただ性欲の詩的表現を受けたものである」、と。
どんなに綺麗事を語ろうと、結局は顔と金の交換。恋愛などという言葉は、そうした薄汚い欲望を誤魔化し、隠ぺいするためにある。
割り勘が正しいとか正しくないとか、割り勘に対してはすっぴんが相応かどうかとか、どちらが損だ、得だとか、そんなことはどうでもいい。そんなのは完全に筋違いの的外れなんだよ。
俺が言いたいのはそんなことじゃない。
人の好意や愛情を金の多寡や、化粧の有無で測ってることそのものが間違ってるんだ。自分の容姿と金を天秤にかけて、損得勘定ばかり考えていること自体おかしいんだよ。愛がないんだ。
どうすれば、そこまで醜く浅ましい自分に無自覚になれるんだ?教えてくれよ。
人の心のわからぬやつら。愛のわからぬやつらよ。
いや、愛なんていらないんだ。愛なんて存在しないんだ。
大事なのは、顔と金の交換。そして、その同意。
結局は容姿。全ては金。
女は容姿を差し出し、男は金を差し出す。
美人はマネー成立。
ブスはノーマネーでフィニッシュ。
金持ち大好き、文無し帰れ。
女に必要なのは金と子供だけ。
男に必要なのは女の容姿だけ。
そのために男は金を稼ぎ、女は金のためにそれを利用する。
愛はいらない。愛など存在しない。愛は死に絶えた。
愛は意味を持たない概念に過ぎないか…。
普遍的な愛なんてものは進化の過程においては何の意味も持たないと言われているんだよ。
生物学者はある意味で皆そう思っている。
例えば母性という母親が持つ愛情は、精子よりたくさんの栄養をもつ卵子を提供している雌がその見返りを求めて子供に執着しているとも考えられる。
すべての遺伝子が利己的であるという説が正しければ、生き物は皆本質的に孤独なんだ。
こうして集う水鳥たちも人間だって一人ぼっちなんだ。生まれてくる時も死ぬ時も。

- 作者: ガブリエル・ガルシア=マルケス,木村榮一
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2006/10/28
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