子供を作れば、この世に何か残せたと思うのはとんだ思い上がりである。
「あれが地球だよパパ」
「小さな星だ・・・。一発で消してしまえばよかろう」
「そうだね。パパ」
と、フリーザの気分ひとつで人類の創り上げてきた歴史など跡形もなく消し飛んでしまうのだ。
実に儚い。そんなものは何も遺せていないに等しい。
僕の絶望とは何か。それは子供を遺せないかもしれないことではない。
僕たちの本当の絶望とは何か。
子供を遺せば何かを遺せた、生物としての役割を果たせたと思考停止している人間、そして子供を遺せなければ人間としての役割を果たせていないと思考停止している人間がおびただしいほどいること。
そうした人間たちの鈍感さ、軽薄さ、無自覚さ、それこそが本当の絶望の源泉なのである。
人間というものは結局のところ、遺伝子にとってただの乗り物であり、通り道に過ぎない。彼らは馬を乗り潰していくように、世代から世代へと乗り継いでいく。
そして遺伝子は何が善で何が悪かなんてことは考えない。我々が幸福になろうが不幸になろうが、彼らの知ったことではない。我々はただの手段に過ぎない。
彼らが考慮するのは、何が自分たちにとっていちばん効率的かというだけなんだ。
にも、関わらずそうした単なる生物としての機能を、遺伝子を遺すということを最高の価値、最上の目的としている人間たちの鈍感さ、軽薄さには心底うんざりさせられる。
僕は、いや僕たちは、単なる生物である以前にたった一度しか機会を持たない意思を持った1人の人間であるはずなのに、単なる「乗り物」としての機能を最高の価値、最上の目的として疑わない人間たちの軽薄さには絶望せずにはいられない。
もちろん、乗り物としての機能を果たす人間がいるからこそ、今日の意思を持った「私」がいる。それは認める。だが、乗り物としての機能そのものを最上の目的としてしまった瞬間に我々人間は単なる生存機械に成り果ててしまうのだ。その先には何もない。猿がひたすらセックスのみを繰り返し生を終えるように。ただの遺伝子の乗り物として消耗して死んでいく。巨大な虚無だけがある。
そのことに無自覚な人間がどれほどいることか!
本当は人生には誰一人として何の意味もないのに、子供さえ残せばなんらかの意味を残せたと思い上がり、思考停止している連中に深い絶望を覚えるのだ。
僕たち人間は遺伝子にとってただの「乗り物」に過ぎない。遺伝子を存続させるための生存機械。
そう考えるとすごくインポになってしまう。
僕は、いや、僕たち人間は単なる遺伝子の乗り物に過ぎないのか。
ただ、それだけの存在なのだろうか。
だとしたら、生きることにいったい何の意味がある?
遺伝子の乗り物。
本当にそれだけの存在なら、神はいったいなぜ人類にこれほど大きな脳を与え給うたのだろうか。
庭は夏の日ざかりの日を浴びて、しんとしている・・・。

- 作者: リチャード・ドーキンス,日高敏隆,岸由二,羽田節子,垂水雄二
- 出版社/メーカー: 紀伊國屋書店
- 発売日: 2006/05/01
- メディア: 単行本
- 購入: 27人 クリック: 430回
- この商品を含むブログ (188件) を見る