クソログ

孤独の海

本当の馬鹿は自分が馬鹿だということにすら気づけない

最近の受験生版タイガーファンディングを観ていると、東大に行きたい、東大の最難関の理科三類に入りたい、と。こんな奴らばかりなんだが、東大どころか、小中学の内容からやり直した方がいい学力レベルで、理想と現実が乖離し過ぎているっていうのが、大半の人の感想であり認識なのだけれど、本人だけがわかってないという様子。

難易度に対して自分の能力がどのくらい離れているのかっていう距離感がわかってない。

自分が馬鹿だということすら認識できないから、実現不可能なとんでもなく高い目標を掲げるのだろう。

しかも大して勉強もしてない。

こいつらに必要なのは受験などではなく、ハローワーク、職業訓練に通い、労働をすることである。

それ以外の道はない。なぜなら一生合格できないから。

ヨットマン戸塚はリベラルは悪だと言っていたが、こいつらを見ているとそれがよく理解できる。

たしかに目指すのは自由である。リベラルな観点からは、こいつらが東大を目指すことは何も悪いとこではない。

たが、現実はどうだ??いつまでも受からないものを目指し続けて、社会には出ず、税金も納めず、自立もできやしない。

自由がもたらした弊害じゃないのか?

どれだけ自由でも結果的に自立できなければそれはヨットマン戸塚の言うように、教育の失敗であり、リベラルは悪だということになる。

リベラルの欠陥は機会は平等でも能力は平等じゃないのに、能力の平等まで前提にして機会を平等にしていることだ。

人は平等ではない。生まれた時から与えられたものは違うのだから。人は身の丈をこえたものを求めると不幸になる。貧乏人が金持ちのふりをするべきではない。無能が有能のふりをするべきではない。貧乏人は倹しさのなかに幸福を求め、馬鹿は馬鹿なりに一生懸命できることを頑張ればよいのだ。それがもっとも賢明な生き方である。賢い人間は運命に逆らわない。


重要なのが仏教に由来する概念、「諦観」という心の持ち方である。諦観とは、「あきらめる」という意味と共に、「悟る」という意味を持つ。


諦観の心、すなわち「あるがままを受け入れる」「足ることを知る」といった「イメージ」を常に持つようにして生きる。

そうすれば、必要に応じて「なすべきこと」が頭に思い浮かぶようになる。

今週のお題「大発見」